なんだかね。
仕事ががっつり忙しくて、休日もなく頭が休まらず
ペンタブ一年生で右手が腱鞘炎で
頭痛薬のせいかはまだ不明だけど謎の発疹(全然痒くないから怖い)
検査結果出るまで「頭痛薬禁止」なのに連日頭痛で
検査二つで20000円出費して。
やんでいた鼻血がちょくちょく出だして。
つまりは余裕がないのですね。
そんなこんななときにいろいろと頭に来るニュースが続々。
コロナ対策でストレスもたまってるし
余計なこと考えたり文章書いたりせずに寝ておきたい。
そんな日々。
おじいちゃんが、古き良き日本(苦笑)の考え方のまま、世界の常識や、進もうとしてる理念の真逆、100%アウトな物言い(の裏にある考え方)で世間から集中砲火を浴びてる。
このことだけを見ると
「とりえず燃やそう。ストレス発散のために」
っていう雰囲気も感じる。
「今まで頑張ってきてくれた御老人が、たったひとこと口が滑っただけなのに。日本は寛容な社会ではなくなったな」と思った。
思うわけないだろよ。
ぼくが「鑑賞な社会じゃなくなったなぁ」と思うのは
怒ってる人に対して「寛容じゃない」ってこと。
今の社会は、古き良き時代(笑)からは一歩前進して、「怒りを表に出すのもあり」っていう、健全さのかけらが見え隠れしてる。
「怒りの声を上げる」のはとても難しい。
不快だったら「不快です」と表明するのはあたりまえなんだけど、この国ではそれはいままで通用しなかった。
「怒り」や「不満」はない。
という大前提にたって国を運営してきたし、それが「美しい」とされてきた。
僕らもそう信じ込まされてきた。
それをここ数年、「怒っている」ということを表明する人たちが現れた。
言ってみれば「怒りいちねんせい」だ。
そりゃ先進国(もちろん日本は違うよ)みたいに「怒りの歴史」があって、怒りの表し方や受け取り方がまだまだ未熟だけど。
怒りを表明し続ける苦労や大変さがどれだけのことか!
これはクソみたいなクレーマーのことを言ってるわけじゃないよ。
その人が怒ってる場合、「怒ってる」ということを認めない人が多い。
「怒りを表すのははしたない」という教育を受け、我慢し続けてる日本人。
我慢なんてなんの美徳でもない。
我慢ものごとを騙す、香料や酸味量とおんなじだ。
偽物の平穏だ。
ねじ曲がって育ち、吐口を見つけ、「自分より下の人間」と設定した途端(それ自体がまったくもって外れてるんだけど、馬鹿だからわからない)、猛烈なクレーマーになる。
つまり「クレームを100%認めない」か「私のクレームは100%正しい」っていう両極端になるしかない。
もう、そんな時期は終わったよ。
- 怒ったら「怒ってる」と表明する
- 怒ってるからと言って「誰彼構わず噛みつく」んじゃない
- 怒りのその大元を見つけて、解決できるよう道筋を探す
これを毎日しっかりやると、そのうち「怒りの大元」が少なくなってくるはず。
自分が怒ってることを、誰かが「認めてくれる=寛容になる」
誰かが怒ってる時にそれを「認めてあげる=寛容になる」
あのとき私の怒りに寛容になってくれたから、わたしも誰かの怒りに「寛容に」なろう。
それが理想。
いま「怒りを表に出す」ことは始まったばかり。
だから「怒りの方法が下手」だったり、行きすぎたりすることもあるだろう。
そんなとき、少しだけ「ああ、ぼくたちはまだ怒りの初心者だから」って、少しだけ寛容になれたらいいな。
一見全く逆のように見えて、このやり方が一番「モンスタークレーマー」を産まないんじゃないかなあと思う。
僕は女性ではないけれど、女性蔑視が蔓延する社会があることを知っている。
若い人たちの中でもやっぱりいる。
「女は女らしく笑ってる人が好き」っていう男の子、まだまだいる。
森おじいちゃんの発言と考え方は「昭和」という戦争の時代に埋めておかなければならなかった。
履くぐらいじゃなく。
そしてその一言について「反対する人が多くなった」と見るや否や「辞任!辞任!」と叫ぶ人たちに気持ち悪さもものすごく感じた。
人が辞めたら終わりじゃないんよ。
表面だけ変わってすぐ、なにも変わらないよ。
ここからずっと「怒りを表に出す」練習をしていかなければ。
もっと問題をあぶり出す怒りの方法。もっと解決に結びつく怒りの表現方法。
やらなきゃいけないこと、かえなきゃいけないことたくさんある。
これも僕の「怒りの表現」です。
まだまだ未熟です。
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