第二回インタビューは、親子対談。
管理人サニーの母親、安田俊子さんに話を聞いてみた。
親子ではあるけれど、聞いたことない話がたくさんで。びっくり。
2015年のお盆。終戦の日。
疎開の話からはじまった。
>>終戦はいくつの時なんだっけ?
6歳かな。最後の最後で疎開があったから。
家が小学校の前にあったから、標的にされやすいって。
身の回りものものだけをカバンにつめて、馬車に乗っていったのを憶えてる。
学童疎開ではなかったから、家族と一緒だった。あまり憶えてないけどトンネルのような暗い「暗渠(あんきょ)」が恐かった。
終戦後、小児結核になってね。小学校にいけなかった。一年近く。
今なら留年とかあるんやろうけど、まあ、どさくさに紛れて遅れはしなかったんだけどね。九九ができなくてつらかったなあ。
療養中、二階に隔離されてたのはずっと憶えてる。
窓から雲が流れるのをずっとみてて、いろんな妄想?空想をしてた。
人形とかもなかったから、着せ替え人形を自分で作って、ひとりで遊んでた。
友達が時々、お見舞いに来てくれるのが嫌だった。サボってるって思われるのがつらかった。
小学校も高学年になると、挿絵画家になりたいなあとか思うようになって。親にも言ったことがあるんだけど、そんな体の弱いのに、そんなのなれるわけないって言われてね。ああ、そうか。私はなれないのかぁと思った。
>>絵を描くのはずっと好きだった?
落書きとかはね。図画の時間とか、さっとできてしまうからサボり気味。友達に頼まれてささっと挿絵かいたりね。得意だったのに、がんばろうとは思わなかったんよね。
学校の代表に選ばれて、大きな絵を描かなきゃいかなかったんだけど。真面目に描こうって気持ちになれず。「まだまだ!こんな風に描きなさい!」って教室にのこされて、描かされたのがほんと嫌だったな。先生の持ってきたモチーフにも全然、興味がなかった。
「残されて、絵を描かされた」っていうのはとてもイヤな記憶として、ある。
>>学生時代はなにに夢中だった?
本を読むのがとにかく好きだった。
60年も前のことだけど。
中学校のころ教科書に載ってた、芥川龍之介のトロッコって作品を読んでから、もう、文学に夢中。
文章をどう感じるか、心にどんな風景を描くかは自由やろ?
そこに現れる風景は、もう目に見えるようだし、人物の顔まではっきりとイメージできて、ドキドキする感じが好きだった。絵を描くより、好きかも。今でも。
>>働き始めて、すぐ絵を描いてたわけじゃないよね?
運動具ショップで働き始めてたんだけど、その気はバイクに夢中。笑。ちょっと年上のお兄さんたちと、乗り回してた。今はもう時効やろうけど、免許持ってないころからね(笑)。途中でちゃんととったよ。(笑)
結婚して、子育てして。そのころは何もできんもんだよ。
でも少し手が離れたら、絵を習いに行きたいなとは思ってて、38歳くらいにカルチャーセンターとか絵画教室に油絵と水彩を習いにいったのが始まり。
何年か習って、公募展に始めて出した作品が、新人賞をもらって。
東京の大きな公募展には出さなかったけど、小さな展覧会でたくさん賞をもらって。
なんだかビックリする。
>>作品はずっと今の感じ?
変わったのはあんたのバイトしてたデザイン事務所に遊びにいってからよ(笑)
風景画とか静物、あんまり好きじゃなくて。
初めて見た、デザインの書物。モダンアート?
宙に浮いた静物。
あ、こんなの描いてもいいんだ。って。
思ったように描いてもいいんだなって。
初めてピタリとはまって。
で、そのころあんたがアクリル絵の具買ってくれて。
アクリル絵の具がものすごく楽しくてね。
マチエール(下地)づくりが楽しくてしょうがなかった。イメージを自由に描いてもいいんだっていう気持ちは、子供の頃、絵を描かされた呪縛からぽーんと解放された感じ。
ものそのものにはあまり興味がなくて、自分の心象にぴったりあうものが見つかったときに、それを描きたいなっていう欲求が起きるんよね。リアリティとかはあまり気にしない。
>>そのあと色々受賞づくめやったよね
内閣総理大臣賞とか、三宅賞とか。物珍しかったんだと思う。
偉い先生が私の絵を見て「これはだれが描いたのか?」とかいわれると、怒られる!と思ってた(笑)
自分は他の作家さんの絵を見て、直接影響を受けることはなくて。
小説とか映画とかからイメージを固めることが多くて、そういうのも多分、本格派じゃなかったんだと思う。
>>絶対向いてないと思ってたけど(笑)絵画教室をはじめたのは?
今年で20年。ずっと通ってくれてる人もいるくらい、本当にうれしい。人間関係が苦手で引っ込み思案なのに、教室なんてね。でも、始める時ってなんとなくできるような気がするんよ。不思議と。
教えすぎないように
でもうまく修正できるように。
パソコン仲間もいるし、楽しいね。
>>去年、ちょっと作風がかわったよね。
背骨を圧迫骨折して。
もう痛くて。
ああ、大きな絵は描けないんだと。もう70歳も中盤。終わりかなとおもった。
絵を描く姿勢はとても取れないし。
かなり暗くなったね。
で、リハビリのために近所の散歩を始めたんよ。
そしたら、今まで何度も見てた壊れた倉庫が、急に愛おしくなって。
かわいいと思ったんよね。
壊れて、風雨にさらされて、でもそこに立ってる。
ああ、これは私だ。
孤独感と悲しみを持ってるこの倉庫は、自画像だと。
思い込みはげしいよね。学生みたい(笑)
初めてそこにあるものをそのまま描きたいと思った。
とはいっても、そのフォルムはいままでどおり好きな平面構成、画面構成の要素もあって。
今年も、同じものを描いたんよ。
同じ倉庫が、夏の日差しの中で、緑の雑草も生えてきて、生き生きと立ってる姿。
いまの心情と同じ、明るく澄み切った感じ(笑)ま、でも太陽がさんさんと、て感じじゃないところも私らしいと思う。
大きい絵を描かなきゃ、次の作品描かなきゃ。
そんな風に何十年と過ごしてきた。
描きたいって気持ちが先に沸き立つわけじゃないから、テーマが見つかるまでは苦しい。ほんとにやめようといつも思う。なんで描くって約束してしまったんやろ、とかね(笑)
でも本を読んだり音楽を聴いたり、映画を見たりして、なにかがポンとでてきたら、そこからは早い、楽しい。
最近は無理せず、流れにそって描けるようになってきたのかもしれない。
気持ちが楽に描けるようになった。
自分は母親としてはダメだったろうなあとおもう。子供を抱きしめたり、スキンシップしたり、全然できなかった。苦手だった。
子供との距離のとり方がわからなかった。
あんたや、妹がまともに育ってるのは不思議かもしれんよ(笑)
2015年8月15日 終戦記念日
————————————————————————–
親子なのにほんと、話したことなかった。
はじめて聞く病気の話。
ガンコで人の話を聞かないところとか、でもなんか言われるとクヨクヨするところとか、妄想、空想がやめられないとことか、やり始めはなんとなくできるような気がするとか。気分の上がり下がりが激しいとことか。
僕は母親そっくりだ。
僕は小児肝炎で、小学校2年生のとき学校にいけなかった。
7ヶ月の未熟児でうまれたので、身体がほんとに弱かった。
学校にいけず、ベランダ越しの雲や山を見ながら、いくつもお話をつくったり。紙芝居つくったりしてた。
人格形成に大きな影響を与えてる疎外感と諦念。
そのうえにどんと座る好奇心。
子供の頃、母が電話で誰かと話しながら落書きをしてて。
話とは何の関係もない人物や、コップとか。
それがさ、上手くてね。
僕はアートでは親に勝てないと思って、ほかに趣味をみつけたんだ。
よく読まれてる記事↓
- 毎年ゴールデンウイークは家のどこかを改装してる【2022年はキッチンの壁!】
- 楽市楽座2021年新作『うたうように』 @清流公園:ぼくらはひとりで、だれかといっしょ
- ソフトバンクとは契約しない方がいい〜ネットと電話を申し込んだらこんな大変な被害が〜
- 誰もいなくなった由布院へ、九重へ。【小さな作家作品にお金を払うということ】
- 詐欺師
- 後悔
- Ouch!ski presents レッツゴー!ホーム@cafe bar gigi【配信カメラマンとして参加してきた】
- USAへの旅その2【音小屋REBOOTはとにかく音がいい!】押しかけギター楽しすぎる
- USAへの旅【音小屋REBOOT5周年記念ライブ】ギターを弾き、絵を描く55歳最後のイベント
- 天国と地獄 ~サイコな2人~【連続TVドラマという表現】ほぼテレビはみないおっさんの感想