こんばんは。ブログアパート管理人のサニーです。
みんなピリピリしてる。イライラしてる。
僕もそう。
語尾が荒くなってる。
政治家の、わるいやつらの悪口を言うことが多くなってる。と指摘された。
おっと、そりゃいかん。
別に「愛に満ちて」いる必要はないけど、「気持ちのはけ口としての悪口」を発することが増えてるような気がする。
- テレビは嘘ばかりだと感じるし
- ネットはもっと嘘ばかりだし
- 政府からの情報は捏造されてるし
- 専門家という名の山師がそれぞれ違うことを言うし
- 友人たちも支持する意見が違う
- 家族内でも情報に対する反応が違う
さらに悪いのが
違う情報を信じてる人を「洗脳されてる」とか「あいつは騙されてる」とか、「あいつは堅物だ」とかレッテル貼ってしまうこと。
趣味の音楽仲間でさえ、主張の違いで「友人と敵」みたいな分別をしてしまう。
ちょっとまって。
僕らはただの市民で、いきなり政局にからんだり、法律を作ったりできるわけない。
つまり、そこで意見が違っても「今日から敵」ってことはない。
ものすごく基本的な「戦争は必要な外交手段」とか「中国人や韓国人は出ていけ」なんてこと言う人とは顔を合わせたくはないけど(笑)
さすがにそこまで違う人は周りにいない。幸いにも。
政策を決める力のある人には激しく文句を言うべきだし、病気で倒れようがかまやしない。
政策にストップをかける仕事の人にも遠慮はいらない。
でも、それ以外は「市民」だ。
貧富の差、自由度などに違いはあるだろうけど。
100人いれば100人の考え方があって、その人が意見を述べていようと「わざわざ反対」することはない。反対したからと言ってどうなる?
他人が他人の人生をどう生きようが「勝手に助言」などする必要はない。もちろん訊ねられたら応えるけど。
一つ一つの事柄で人間はできてるんだけど、そのチョイスが自分と違うからと言って「もう付き合いたくない」なんてのはおかしいよね。
僕の信じてる情報源、主義と、あなたが信じてる情報源、主義が違うことはなんの問題もない。
「向こうからやってくるうまい話は全部うそ」
子供の頃からそう思っていた。
SNSなんてのがない頃はまさにそうで、わざわざ「こうしたほうがいいよ」なんて言う奴は自分が儲けたいだけだった。
でもツイッターやFacebookで流れてくる「情報」とよばれるものは?
そこまで明確に「悪意を持って発信」されてないかもしれない。
その人が「いい情報」と思ったものを拡散してるだけ。
その情報が僕にとっても「いい情報」でなきゃいけない理由なんてない。
「コロナウイルスを撃退し、健康でたのしい日々を取り戻したい」と、割と多くの人が思ってるはずだけど、日々更新される「情報の顔をした意見やデマ」に右往左往してしまう。
感情的になって、自分の信じてることを信じないひとに悪態を吐く。
「感情でなく、情報を信じる」のが必要というけど、
そもそも、僕の、私の「信頼できる専門家の情報」も、嘘かもしれない。
信じられる情報なんてないかもしれない。
治療法、予防法、入院患者数、重症者数、感染率、感染者数、クラスター発生箇所。
発表されるものは「うそ」かもしれない。本当かもしれない。
そのくらい「信用のできる情報が発信されない国」にいることは肝に命じていたほうがいい。
だからどうするか?
僕のやれることはひとつ
「自分の信じてる情報と違うものを信じてる人を排除しない」
これだけ。
ああ、この人はこう思うんだな、と思うだけ。
コロナウイルスも、このてんでダメな政権も、僕らを「新しく分断する」ナイフだ。
違う意見の人は「ばか」じゃなく、「自分と違う人間」でもなく「意見の違う人」だ。
僕らは違う意見の中にいるんだけど、同じ意見をピックアップし、チョイスし、安心する。
それ自体は「精神衛生上」悪いことじゃないと思うけど、行きすぎてその「繭のなか」に入りっぱなしになると、世界はもっといづらくなる。
自分を正当化したい。
その欲望はとても正しい。承認欲求だってあっていいと思ってる。
でも「自分と意見の違う人」と距離をとったり戦ったりするには、僕ら日本人は「成熟」が足りない気がする。
武器だけ持ってルールをしらない戦士のよう。
戦う前に、相手を眺めたい。
ツイッターなどであってる「意味のわからない粘着コメント合戦」に取り込まれず、脇からながめ、「人の振り見て我が振り」をかえりみたい。
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