最終章のはじまり。
命の終わりが近づく老人たちよのように、少しずつわだかまりが、傷跡の記憶がとけていく。
感情を逆なでしつづけた美和の気持ち。その理由。
「本気で怒って欲しかった」
まるで子供のような。
そりゃあたりまえか。子供だったんだから。
子供が子供のまま育つ。そんな不思議な隔離施設だったんだ。陽光学園は。
子供の頃に奪ったCD。
それを見つけて、なじられたい。
感情をあらわに怒られたい。死ね!っていわれたい。
いつもすこし遠くから見てる恭子を、自分とおなじ地平にまで落としたい。
すごく純粋な欲望。
友達になりたい欲求。
君と関わりたいけど、話しかける言葉を知らないから、殴るしか手がない。
ピュアな衝動。
怒り、叫び、悲しみ、よろこびの涙を流す。
美和はあまりにも無防備。
心を閉ざして生きる恭子とはまったくちがう。
ふたりで友彦を迎えにいく。
その車の中で話されることば。
ゆっくりとしたシーン。
TVのあわただしいエフェクトのまったくない会話のシーン。
映画のように重厚な。
ふたりを照らす太陽の反射。
もう、時間がない。
いのちの終わりはすぐそこにきてる。
やっとのことでたどり着いた恭子と美和。ふたりの言葉は、すっと溶けていく。
TVドラマをなめてるわけじゃないけど
時間的制約やら、視聴率やらのからみだろうか、重要なシーンに重みがないことがおおい。
ビジュアルエフェクトやカメラの切り替えなどで、なんとかスタイリッシュに見せる技術だけが一人歩きしてる気がする。すべてが「ケイゾク」のせいでもないだろう。
でも「わたしを離さないで:第7話」での車の移動シーンのふたりは、過剰な演技でもなく、わかりやすい感情の爆発もなく、説明的なセリフもなく。ただ、二つの役柄が、ふたりの女性が時の流れを背負って話してる。
すいこまれるような。
当事者のような気持ちになった。
波が来て、ひいて。次の波がうちよせるまでの、ほんの数秒の、なぎ。音の消える瞬間。海鳥の声が聞こえる瞬間。
三浦春馬おそるべし
三浦春馬の演技のおそろしさ。「うわ、若い役者さんたち、うまい」と感心した。
友彦なんて、子供の頃の友彦と全然変わらない。
動きや表情もぶれがない。
この人、すごいわ。
かわいい顔で損してる。
すごくよく研究して、鍛錬してる。
身体のあちこちを「提供」して、ほぼ残り物の「人間ふたり」と、彼らを介護し、自分も近い未来に「残り物」になる女。
彼女たちはただの部品で、備品で。
命に価値はない。
彼女たちの命は、僕らが予約してるもの。
その時を待ってるオリーブの缶詰とおなじ。
僕らは彼女たちを育て
奪い
始末する。
心を閉じているのはどっち?
グレーと白の病院のなか。
限られた時間のなかで命の炎を燃やす「提供者」たちと、臓器移植を仕事とする(心を閉じてないとやっていけない仕事だよね)人の対比。
手術室で臓器をぬかれ、もう病室には帰ってこない「残り物人間」をベッドに乗せて運ぶナース。
どんな気持ちだろう。
心を閉じなきゃ生きていけないのは彼女たちのほうかもしれないな。
提供三回で、おしまい。
回復が遅いから、次回は臓器三つとって、解体しましょ。お金かかるから。
僕らにその考え方は、みじんもない?
社会的弱者(やな言い方だ)や性的マイノリティーを見る目は、「俺たちの社会保障費つかうなよ。はよ死ねや」っておもうことない?
見たくないものをしっかり見せ付けられ、どんよりとした気分で週末に入る。
それでもいい。
ぼくは彼女たちの結末を見たい。
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