篠山紀信はすごいと思わなかった、あの頃。
僕ら昭和40年世代には、篠山紀信は「GORO」でグラビアを撮る人というイメージだった。
荒々しいもの、尖ったものが好きな10代20代の頃は、加納典明や荒木経緯の写真が好きだった。
篠山紀信って、普通に脱がせて、普通に「ニコパチ」なおっさんだと思っていた。
まあ、いわゆる体制側、出版社側の人間だと。
もちろん「135人の女友達」という本は買ったし、激写!も好きだった。
有名人のヌードならともかく、素人の裸を見ることなんてない時代。
胸のカーブにこころときめかせたもんだ。
篠山紀信展 写真力@福岡アジア美術館
まだお正月ムードと初売りモードの残る中、バスに乗って福岡アジア美術館へ。
朝10時過ぎ。
ところが会場は60代以上のおじちゃんおばちゃんで賑わっていた。
篠山紀信を見に来た、というわけじゃなく、百恵ちゃんや夏目雅子に会いに来た感じの。
若い人もポツポツはいたけど、おばちゃんたちの「懐かしいね〜」という声には負けてた。(あ、声がでかかったわけじゃないよ)
どーんと飾られた写真。
見たことのあるものも多いけど、壁一面に引き伸ばされたその写真には、全く隙がなく。
ぽかんと見るしかなかった。
展示されたスターたち。
まっすぐにこちらを向いた写真が多い。
篠山紀信をすごいなと思ったのは「サンタフェ」から
多分、その時、一番豊かだった宮沢りえのヌード。
サンタフェという言葉から生まれる異国の解放感の中、神のような曲線を見せる宮沢りえ。
はるか彼方の風景の、揺れる草の一本一本までがきちんとキャスティングされてるような写真。
圧倒的だった。
すごいと思った。
斬新なアイデア、逆に言えば現代アート的な思いつきは微塵もなく、整然と笑っていた。
写真なんか、被写体との関係性がメインで、あとは撮ってりゃ当たる!何て思っていた「素人写真好き」な僕はぶん殴られたような気がした。
篠山紀信展 写真力@福岡アジア美術館「リアルをブーストするもじゃもじゃ頭」
篠山紀信の写真は、架空だ。
どこまでもはっきりと描かれた人物と背景。
目で見える以上に瞬間を写し取る。
と言うより「瞬間を作る」写真家なのかも。
三島由紀夫も王貞治も、玉三郎も。
写真を観る側の持つイメージに反応するべく撮られてる気がした。
時代、と言うものかもしれない。
時代をわかっていて、リアリティをブーストさせて、しかもこちら側を向かせて、撮る。
時代の寵児が、庶民の方を向いてくれてるかのような「嬉しさ」を作り出す。
「被写体は、大衆のためのもの」
そんな気がした。
だから、過ぎ去ったものだけが持つ美しさと悲しさが、懐かしさを生むのかもしれない。来場者の年齢層がそう言ってる。
篠山紀信展 写真力@福岡アジア美術館「写真は、哀しい」
椎名林檎じゃないけれど、写真はすべて「過去」だ。
美しかった人の美しい過去
今は成長した若者の青い過去
今は失われた風景。
写真は過去を焼き付けることしかできない。
未来を想像させることは、できないのではないだろうか。
写真は残骸だ。
写真は哀しい。
美しさも青さも未熟さも輝きも、その時の形と今は違う。
記録として、記憶として写真が残していくものは一体なんだろう。
過去がちゃんとあったこと。
それを伝える責任。
そんな時代が、笑顔があったこと。怒りがったこと。
それを伝える責任。
被写体のエネルギーの強さと、それを切り取る写真家のシニカルさと。
愛と戦いを感じた写真展だった。
篠山紀信展 写真力@福岡アジア美術館「ぼかされた背景」
一瞬の隙もなく構成された(作られた)写真が続く中、最後のコーナーは東日本大震災のもの。
ここだけは違った。
ピントを外された背景、瓦礫を前にして、生きる人たちの正面図を撮る。
明らかに今までのクールネスとは違う「人の心のざわつき」が現れてる。
ピントを外しているからこそ、私たちの目が捉える風景が見える。
架空ではないぞ。
これはあなたの目に見える光景だぞ。
そんな風に胸倉を掴まれた気がした。
時代に寄り添い
時代と掛け合って
時代を解釈したカメラマンが
今は、こんな時代なんだぞと、こっちを向いてる。
初めて篠山紀信が、写真に写り込んでいる。
全国を回るようなので、ぜひ見てみてください。
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