こんばんは。「わたしの人生、わたしのもの」のサニーです。
フォトショップっていうアプリ(ソフトウェアっていうほうがしっくりくる)をもう30年くらい使ってる。
画像編集ソフトとしては多分、一番有名なんじゃなかろか?
最近、フォトショップの広告で「写真内の不要なものを綺麗に取り除く」っていうのがあって、
例えば湖に見栄えの悪い岩があると「消去」して、周りの写真をサンプリングして「さも現実のように」うめこんで。
実物とは違った写真になる。
見た目きれいな写真。
昔は僕らが「手動で」ひーこらいいながら修正いたものが、クオリティは数段上がって、一瞬でできるようになってる。ワンクリックで、さっと消える。
昔は電線とか電信柱とかを消してたな〜。
旅行の思い出とかで「ああ〜〜変なものが写り込んでるな〜〜」って思うことはわりとあるよね。
写真は真実を写すってことはもうないし、そもそも「ありのまま」が真実とも限らない。
写真は嘘をつくもんだと思ってる。
でもさ、この考え方、「余計なものは消せばいい」っていうの。
こわいな、と思った。
電線は誰にとっても不必要で、なるべくなら目につかない地下を通したほうがいいけど。
僕は多くの人にとって「不必要なもの」だ。
誰もが、誰かにとっては「必要」で、それ以外の人にとっては「不必要」。
現実は「誰かにとって」という目線が個人の数だけあるから、複雑に絡みあうから
「不必要な人」ってのが確定しにくい。
はずなんだけど。
でも…
- 号令かける人
- 影響力のある人
- ヘイトを助長する人
など、が発信したらどうなるんだろう?
ある少数の人にとっての「不必要」が、いかにも「全体にとって不必要」なものに変わっていかないか??
- 号令かける人(政府、政権を持つ人たち)
- 影響力のある人(テレビでコメントする有名人)
- ヘイトを助長する人(ヘイト顧客をもってる人たち)
ぼくらは馬鹿で浅はかだから、すぐ信じてしまう。
自分で考えることは苦手だから、情報という名の洗脳にとても弱い。
自分が、誰かにとって「不必要なもの」でないか不安になった時、
多数派からこぼれ落ちる恐怖に襲われた時。
「自分より不必要なもの」を見つけて(誰かが言ってることまに受けて)
「違います!私じゃないです!あの人の方がもっと不必要です!」
という。
多くの不安な人が、自分より不必要な人を見つけ、安心する。
「不必要とみられまい」とする欲求が「不必要な人たち」を作り出す。
今の社会、そんな気がして恐ろしい。
不必要な人は「いなかったこと」にされるかも。
綺麗に消去されるかも。
見栄えのいい写真のように。
- 病気のひとは不必要
- 前科者は不必要
- 外国人は不必要
- 低所得者は不必要
- 弱い人は不必要
- 生産性のない人は不必要
- 国のいうこと聞かない人は不必要
たくさん「小さな不必要な人」を作った方が、「自分が不必要なんじゃないだろうか?」っていう恐怖から逃れられる。
テレビは
「あなたじゃない。あなたと違う考えの人が不必要な人なんです」
と、多くの大衆を導いてくれる。
さらに
「いま、不必要な人でも大丈夫。みんなと同じように私に従えば抜け出せます」
と、安心させてくれる。
- 病気のひとを責める
- 前科者を責める
- 外国人を責める
- 低所得ではない!と思い込む
- 弱くない!と思い込む
- 生産性のない人を責める
- 国のいうこと聞かない人は非国民だ!と思い込む
ほら、割と簡単でしょ?
ほら、「自分は大丈夫」って思いやすいでしょ?
病気の人、前科のある人、外国人、生産性のない人、弱い人…。
自分は違う。大丈夫。
今のハードルならね。
いったん安心すると、不安がやってくる。
だからまた条件を絞り込む。
爪先立って、ギリギリそのハードルを越える。
でも、つぎは?
次の条件でも「自分は不必要でない」って思えるかな?
この世界はみにくいから、きれいなものだけ見ていたい。
とてもよくわかる。
僕だってそう。
でも「きれいなものを選んで見る」ときに「きたないものも存在する」ってことだけ忘ればければいい。
そう思う。
僕らは必要でも不必要でも、存在する。存在してる。
◆
◆
◆
◆
ちゅるっと毎日すっちゃうスティック!
鉄分補給で元気にきれいに!「ちゅるっとサジー」かわいすぎる健康食品がSNSで話題沸騰!プレゼントしても喜ばれること間違いなし!
ブログアパート「私の人生、私のもの」よんでくれてありがとう。
FACEBOOKページをフォローしていただけるとうれしい。
新しい記事をお届けします。
◆
◆
◆
◆