1945年(昭和20年)6月19日、福岡大空襲

こんにちは、

投稿するのが少し遅くなってしまったんですが、
ここ「Life is mine」にお住まいの方、遊びに来る方は
福岡の方が多いかなーと思い、書いてみます。

福岡で育った皆さん、6月19日(の前後)には、平和授業を受けましたか?

(これ、ホント知りたいので、よかったらfacebookのコメント欄にでも
書いてください! 福岡市内/市外、どのあたりの学校だったかも一緒に!)

1945(昭和20)年、6月19日、福岡大空襲。

その日、あらためてwikipediaを読んでみました。
wikipediaを鵜呑みにしちゃいけないんですけどね(笑)

(引用開始)

博多や天神を中心に爆撃が行われ、
東西は御笠川から樋井川まで、
南北は博多湾海岸線から櫛田神社・大濠公園までの一帯が焼失した。

22時32分頃 福岡地区に空襲警戒警報発令
22時58分頃 空襲警報発令
23時11分頃 爆撃始まる
0時53分頃  空襲終了

約2時間の空襲により福岡市の3分の1の家屋が罹災。
市内でもとりわけ奈良屋・冷泉・大浜・大名・簀子の5校区の被害が激しく、
死傷者の9割を占め、
簀子校区は2軒を残して全ての家屋が全焼するなど、
あたり一帯は瓦礫ばかりの焼け野原と化した。

DSC_0614慰霊碑
(簀子小学校跡地 横の公園には、大きな慰霊碑があります。)

1931年に建設された奈良屋小学校(現在の博多小学校の立地)の鉄筋コンクリート製の一校舎は住民の消火活動もあって焼け残り、
翌朝から遺体安置所として遺体の身元確認が行なわれた。

上述地域のほか、薬院・当仁・新柳町(現在の清川)・平尾・六本松・田島・姪浜など多数の場所も被災。
七隈の九州経済専門学校(現在の福岡大学)は学生が勤労動員で休校状態だったが、
図書館を焼夷弾が直撃、蔵書約3,000冊もろとも灰燼に帰した。

また脊振山の山裾に位置する早良郡・糸島郡・筑紫郡の村々も爆撃された。
これは脊振山の影を博多湾の海岸線と誤認したためであった。

日本軍の施設のうち、福岡城址の西部軍司令部や歩兵第124連隊の建築物に被害が出た。
しかし同年5月に滑走路が完成していた席田飛行場(現在の福岡空港)には被害はなく、
終戦後の同年10月に米軍板付基地として接収されることとなった。

空襲の翌日、西部軍司令部に収監されていた連合国軍捕虜が報復処刑された。
同様の処刑は原子爆弾投下後の8月10日、終戦の8月15日頃にも行われた。

(引用終わり)

福岡大空襲地図

あなたが住んでいるところ、
あなたが学校に通ったところ、
あなたが遊びに行くところの、
71年前の景色。

そこで失われたものたち。
そこから新しく築かれてきたもの。

地続きの話なんですよね。

DSC_0613レンガ塀
簀子小学校の赤レンガ塀です。
破損・修復したような部分は、戦争中の逃げ道のためにくりぬいたものだと伝えられているそうです。
今も、残っています。





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