こんばんは。ブログアパート管理人のサニーです。
晴れのち曇りの予報の火曜日、ふいに降って来た雨の中、筥崎宮近くの「愛と青春のふる〜れ」に
つかこうへい作、玄海椿演出の『ヒモのはなし』を観てきました。
まだ公演は続くので細かいディティールやネタバレはありません。
つかこうへい。芝居に疎い僕にとっては「蒲田行進曲」の人というくらいの知識。
上演された「ヒモのはなし」は
- 『人が人を愛するというどうしようもない話』
- 『いつまでも夢と「もしも」を捨てられないというどうしようもない話』
が入り混じったお芝居だった。
母になれなかったストリッパー・明美とそのヒモのシゲさんを中心とした小さな世界のはなし。
今もかすかに存在しているストリップという文化。
「裸になるだけじゃない。踊るんだ」となんども劇中でいわれるが、客は「女の裸を見たい」という欲望のみをもち、集う。
女が生きて行くためには「脱がなきゃ始まらない」時代が確かにあったのだろう。
生まれて来た証明として最後に残る「裸の自分」を武器として。
体は晒すが、心は切り売りしない。
そんなストリッパーたちはもう「時代の思い出」として埋もれていってる。
お金くれるなら進んで股を開く少女たちの時代をすぎて、心はいま、どうだろうか?
それはまだ、SNSもインターネットもない時代。
人の心に触れるには、体が触れ合うしかない時代。
シゲさんのいう「ヒモ道」とはなんだろう。
ヒモは女のために「稼ぎ以外の全般」を面倒見る。
なぐり、なぐられ、心を痛め、痛めつけながらも離れられない。
現代的にカルテに書くなら「共依存」なのだろう。
でも、そこに「愛」はあるのか?
そもそもお互いがお互いを必要とするのに理由はいるのだろうか?
広辞苑やwikiにのってる「愛する」という言葉の意味とは違うかもしれないけど、人と人の間には、その人たちにしか分からない(もしくはその人たちにも分からない)愛があるんじゃないだろうか?
なんどもなんどもその生き地獄を抜け出そうとして、でも抜け出した後の未来図はからっぽだ。
2時間弱のこのお芝居。
小さな子供が下ネタにケタケタと笑うシーンモアあれば、短くはない年月を生きて来た大人だからこそ笑える、泣けるシーンもたくさん。
タップダンスに歌、シンギングインザレイン。
スポットライトがあたり、その後ろに影ができる。
明かりを強くすれば、目に見える傷はごまかせるけど、影はより黒くなる。
音楽ははじまり、そして唐突に終わる。
拍手の代わりに紙テープを投げたくなるようなシーンや
ニコニコしてたおじさんが急に涙を拭くようなシーン。
おっぱいとおしりと、そのほかの身体のものがたり。
愛と青春と、それが過ぎ去ったあとのものがたり。
最前列で見せてもらった。とはいえ客席は二列。
ぎちぎちに満員だった。
生身の人間が、全身全霊で「ほかの誰かの人生」を演じるのがお芝居。
でもほかの誰かを演じていても、演じる役者の人生が流れ出てくる。
文字で書かれた脚本が、人の声で読まれ、人の体を使って「生き物」になるのがお芝居。
叫び、泣き、笑う。
歌い、踊り、倒れこむ。
どれもが架空であり真実だ。
演じる役者さんは時々詰まり、無様に倒れることもある。
でもセリフをきちんというだけがお芝居じゃない。
僕らが本気で感情をむき出しにするとき、言葉ははっきりと出ない。
咆哮のようだ。
僕は趣味で音楽をやってるので「ギター上手いですね」なんて褒めていただけるのがすこし苦手だったりする。
だからこの日の役者さんに「すごい台詞の量ですね」とか「大迫力の立ち回りでしたね」とか、言いたいけど、言わない(笑)
彼ら彼女らが
- 芝居が好きで
- 芝居をやめたら死にそうで
- 自身の人生自体が芝居なのかも
そう思って生きている情熱が、客席にどんどん流れ込んでくる。
素晴らしい脚本も、気の利いた演出も「人生をかけて芝居をする役者」にはかなわない。
そういうお芝居を真近で見ることができるなんて嬉しいじゃないか。
まだまだ見るチャンスはある。
ぜひ。
安心して楽しめて、帰り道に心に何か「あたらしいタネ」が撒かれるお芝居です。
8月31(土)〜9月5日(木)
愛と青春のふる〜れ
福岡市東区箱崎1-33-9ウインドウビル3F
9月6日(金)
ふくふくホール
福岡市中央区荒戸3-3-39
【709号室】ガーリーおじちゃんはまったく役に立たない2019
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