褒める教育から生まれた「褒められるために行動する」喜び

こんばんは。ブログアパート管理人のサニーです。

ある日ツイッターで面白いつぶやきが二つ並んで表示された。

 

  1. 「お母さんに褒めてもらいたかった子供の記事」
  2. 「褒める教育が社会に出た時のギャップを大きくする」

というもの。

 

いつ頃からかな?「褒める」ってのが重要だって言われはじめた。僕は自分の息子をあまり褒めなかったけど(笑)

いいとこを見つけて、褒める。
すごくいいことのように聞こえる。

 

あ、

悪いところを見つけて、責める。
よりかは何百倍もいいと思う。

だって褒められたいもん。褒められると嬉しいし、嬉しいとやる気になる。

 

でも必要以上に褒めるとどうなるんだろうか?
「褒める」は甘い果実。もっともっと欲しくなる。本当はそれがやりたかったのかどうかわからなくなっても「褒められたい!」という欲求は大きく深くなる。

楽しいことを見つける=褒められることをする
では決してないと思うんだけど。

 

自分探し=自分の中の褒めら得るところを探す
では決してないと思うんだけど。

 

褒められなくなったら?
注目を集められなくなったら?
褒められるどころか叱られたら?

「褒められる」を中心に置くと「失敗」は許されない。実際にはなんども失敗しないと成功しないとは思うけど。
「褒められないこと」を避けていくとどうなるんだろう?

思考は最大公約数に寄り、「同じでーす」に傾いてくるかも。失敗が目立たないように。

 

例えば学校に個性的な子がいたとして。
その子を褒めるとどうなるか?

  1. 他の大多数の子は褒められない
  2. 褒められたいばかりに、他の大多数の子が「個性的な子の真似をする」
  3. 全体主義、連帯責任を教える学校にとっては不利益になる
  4. 個性的でない、模範的な子を褒める
  5. 褒められたいばかりに、他の大多数の子が「模範的な子の真似をする」

何が「模範的」かどうかを決めるのは学校。
ということは組織にとって都合のいい模範者を一人作って、その人を褒めたらいい。すごい簡単な人材育成法。

 

そこに「褒め方の上手な詐欺師」が出てきたら?
褒められるために頑張っちゃうんじゃないだろうか?
誰かのためにとか、世界のためにとか、祖国のためにとか。

 

「褒められないストレス」を、さらに褒められない人に向けることによってスッキリしたり、
「褒めてくれる?」と上目遣いで確認したりしちゃわないだろうか?

 

  • 違う意見もあっていいよ
  • 自分の考えを押し付けちゃダメだよ
  • 意見が違うからといって排除しちゃダメだよ

 

こうすると誰もが「褒められる」ということに向かわなくても生きていける気がするなぁ。

 

あと、意見を持ってると「戦わせたく」なることが多いよね。自分の正義とか常識と照らし合わせて。でもさ、政治的なことなら意見を発表する機会「投票権」も与えられてるし、勉強もできる。

だからと言って違う考え方の人と「争わなくてもいい」と思う。「意見をしっかり持つ」ということと、「違う考えの人と戦う」は全然違うとこと。

意見交換は楽しいけど、それは互いを否定し合うものじゃない。見識を広めること。そういう風に考える人もいるんだなぁと。

 

褒めることも大切だけど「褒められなくてもいい」ってこと、とても大切だと思う。
親にあんまり褒められたり、子供を褒めたりしたことない僕が思うのはそんなこと。

僕や息子が「立派」に成長してるかは謎だけど(笑)

 

【704号室】ガーリーおじちゃんはまったく役に立たない2018





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